〜ミュージカルの舞台となった場所・歴史・自然〜
|
《福島潟の自然》 |
|
オリジナルミュージカル「春のホタル」の舞台となる福島潟は、新潟市北区(旧豊栄市)にある湖沼です。周辺の干拓により、面積は当時の30分の1程度となりましたが、現在でも271ヘクタールの面積を有する、新潟県内最大の潟湖です。
福島潟は、毎年秋にロシアから渡ってくるガンの仲間、オオヒシクイの日本最大の越冬地となっているほか、巨大な一年草、オニバスの生育北限地であるなど、貴重な自然が数多く残されているオアシスです。
|
|
また「日本の自然百選」や「日本の音風景百選」などに選ばれるなど、水辺の原風景や漁業の営みなど、豊な資源を有する場所として、多くの観光客が訪れています。
|
|
国の天然記念物であるオオヒシクイはハクチョウやカモの仲間で、羽を広げると1m60cmにもなる大型の渡り鳥です。毎年秋の稲刈りが終わった9月下旬頃から徐々に福島潟へやってきます。ピークになると数千羽のオオヒシクイが福島潟周辺の水田で餌をとり、福島潟で越冬する様子を観察することができます。
|
オオヒシクイは草食で、早い時期には刈り取られた稲穂から芽を出した二番穂の稲穂をついばむ他、厳しい冬になると顔を土中に潜らせて稲株を食べたりして冬を越します。このほか冬になるとコハクチョウやたくさんのカモなども潟を訪れますが、広大な福島潟周辺の水田などは、鳥類にとって安心して越冬することのできる条件が揃っているといえます。 |
|
|
|
オニバスは、スイレン科の一年草で、以前は潟の至る所に生育していたといわれていますが、舟運や漁業への影響等により除去された結果、一時は福島潟では全く見られなくなってしまいました。ところが、昭和63年に福島潟で偶然オニバスが再発見されたことから保護の気運が高まり、現在では自然学習園の観察池などで見ることができます。 |
このほか、福島潟には220種類以上の野鳥と450種類以上の植物が確認されており、四季を通じて水辺の自然や風景を楽しむことができます。湖畔に設置された「水の公園福島潟」にはレンジャーも常駐しており、詳しく楽しく解説してくれますので一度お出かけしてみてはいかがでしょうか。 水の公園福島潟HP http://www.pavc.ne.jp/~hishikui/ |
|
|
《干拓の歴史》 |
水と土に恵まれた新潟は、裏返して言えば水害との戦いの連続でした。もともと阿賀野川は、現在の新潟市沼垂地区の先で信濃川と合流し日本海に注いでおり、この頃の北区(旧豊栄市)のほとんどは沼地でした。
8代将軍徳川吉宗の頃、享保15(1730)年に新発田藩は排水を良くするために阿賀野川松ヶ崎地区に放水路の工事を行いました。これは日本海の手前で砂丘に突き当たり左に大きく曲がった所をまっすぐ日本海に水を流すための工事です。この工事によりずいぶんと水はけが良くなったといわれました。 |
ところが、翌年春の雪解け水によりこの放水路が拡大して、松ヶ崎放水路が阿賀野川の本流となりました。工事当初の目的とは別に信濃川と阿賀野川は分離されることとなったのです。ちなみに阿賀野川と信濃川を結ぶ通船川は、過去の阿賀野川の名残です。
阿賀野川が直接日本海に流れ下ることとなった結果、福島潟周辺の沼地の水面が約2m低下し、3,800haもの土地ができたといわれています。そしてこのことが福島潟周辺に葛塚、太田、早通といった集落を発展させ、干拓を推し進める要因となりました。
なお干拓に手柄を立てた新発田藩家老の溝口内匠は、北区文化会館近くに100haもの土地を譲り受け、現在の稲荷神社もそのころ移築したそうです。
|
|
福島潟干拓の先駆者は、柏崎出身の山本丈右衛門です。彼は、宝暦4(1754)年に江戸幕府から開発の許可を得ると、新太田川や新井郷川などの改修工事を次々と行い、太田興野新田など約189haを干拓しました。その後、寛政元(1789)年からは、水原の代官所から指示を受けた市島徳次郎など大地主十三人衆が福島潟干拓を行いました。さらに、嘉永5(1852)年から斎藤七郎次永冶が受け継ぎ、明治20(1887)年からは、弦巻(つるまき)家が行いました。
明治44(1911)年には市島家が念願であった福島潟の干拓権を手に入れ、「山倉囲い」とよばれる干拓を行いました。これは、潟端に囲いの土手を築いて、その中にモミ殻や泥土を埋め立て、水田にしていく方法です。
このようにして福島潟は、明治時代末期には当初の10分の1程度まで開拓されました。
|
この時期までの干拓は、藩や大地主によるものばかりでしたが、第二次大戦後の農地解放により田畑が農民に売り渡されると、太田地区の農民の間に「自分たちの土地は、自分たちの努力で得ていこう」という気運が高まり、ついに昭和30年、黒山潟が太田地区の農民によって干拓されました。
当時は排水機場も大型の建設機械もなく、米づくりは常に水との戦いでした。胸まで浸かった田植えや阿賀野川や加治川の洪水による土砂の流入など、当時の米づくりは今では考えられないほどの苦労の連続でした。
ミュージカルでは、黒山潟干拓に深く関わった先人達が登場し、干拓に臨む心意気や力を合わせて取り組むことの大切さを教えてくれます。
現在の黒山潟干拓地
|
その後、福島潟の最終的な干拓は昭和41(1966)年から始まった国営干拓事業で、当時は残された約400haの沼地全てを干拓する計画でしたが、その年の7月17日水害、さらには翌年の昭和42年7月17日羽越豪雨と、連続して襲った水害のため、干拓の計画が縮小され昭和50年に完成しました。
私たちが現在眺めている福島潟は、芦原の國を想起する自然景観が広がっており、国の天然記念物であるオオヒシクイやオニバスなど、貴重な動植物が数多く残る水辺として多くの市民に親しまれていますが、過去には大変多くの苦労があったことも忘れずにいたいものです。
※黒山潟干拓の場所は、ビュー福島潟と太田小学校の間の水田地帯です。現在はほ場整備が進み、
豊かな水田地帯が広がります。
|